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カペラのアントワープ旅行のもうひとつの目的は、世界中から選ばれた8つの古楽アンサンブルが欧米の音楽関係者を前に演奏するプレゼンテーションに参加することだった。その本番に先立つ2日間、各アンサンブルは古楽界を代表する歌手の一人ジル・フェルトマンと、ユニークな活動を続けるリコーダー奏者ケース・ブッケ(このふたり、いつのまにか夫婦になっていた)にコーチング、つまりいわゆる公開レッスンを受けた。彼らの演奏はよく知っていたし、大体どんな反応をするか予測はついていた。そして実際、思っていたような指摘もだいぶあった。
ともあれ、ふたりともカペラの演奏を大変高く評価してくれてうれしかった。古楽の演奏法は多様で、まったく正反対のアプローチも可能だろうが、カペラのやり方は、それとして徹底しており、強い説得力をもっている、とてもインプレッシブである、と口をそろえて言ってくれた。
ジルがあげた批判点としてはまず、長いフレーズ感は出ているものの、視覚的にも聴いた感じでもタクトゥスが強すぎる、つまり拍子を取りすぎているということだった。これは、特に音の動きが複雑になってくると何人かの歌手が手でタクトゥスをとり始めることからきており、確かに改善すべき点だった。
もう一点は発音と関連した発声の仕方で、とてもネイザル、つまり鼻音が強いということに疑問を感じるということだった。フランス風の発音も首尾一貫しており、すべての単語を理解することができたし、響きがアンサンブルでとてもよくそろっているし、とても説得力があるが、そのような音で歌っていたという証拠はない。もっとも、そうではないという証拠もないのだが、ということだ。普通の声楽家のアンサンブルにはない耳慣れない響きなので、違和感を覚える、ということはあるだろう。
私は、これが言葉を生かした自然でフランス的で、旋法の音楽にふさわしい響きであることを確信している。メンバーの一人で近代フランス歌曲の専門家の根岸君も別な視点から同様な結論に達している。また、中世・ルネサンス時代のさまざまな楽器を聴いてみると、私たちの発声との類似を容易に見出すことができるだろう。ジルがこれは少し後の時代のものだが、と断って引き合いに出した文献の証言には、鼻音を強く歌うべきでない、という指示があるという。私は、それはむしろそれ以前の歌手たちがそのように歌っていた証拠にもなるのではないか、と反論したが、もちろん、はっきりしたことはわからない。はっきりしているのは、この響きでこの種の音楽を歌って感動してくれる人たちがいることであり、説得力がある、とジルたちも認めてくれたことである。
この響きは、倍音の関係もあるが、明らかに上に向かっていく響きだ。大ホールの聴衆を想定した歌い方ではない。そうではなく、優雅に精神性を表現する調和の音であろうとする。だから、旋律が高く舞い上がってもその高みで声を張り上げないで、謙虚に低声との音程関係で純正になろうと声をあわせ、リエゾンしながらさらに先に向かって成長しながら流れていこうとする。
それが、ジルのもう一つの批判点でもあった。このような歌い方は声の「自然な」動きに反する、人間の本性に逆らった表現だというのである。特に女声の声の使い方が疑問で、声をフルに使っていないという。ケースは別の観点から、言葉の意味をもっとはっきり、ダイナミックに表したほうがいい、と指摘した。こういうことを彼らが言うかもしれないとは予測していた。彼らのどちらかというとバロック的、劇(場)的、イタリア的な演奏から、このような感想はもっともだし、一般的にはこのような歌い方には欲求不満を感じる人もいることだろう。もちろん、いろいろなスタイルをよく知っている知識も経験豊かな人たちだから、自分と違うものはだめ、というような単純な判断はしないが(だからこそカペラの演奏も高く買ってくれたのだが)、そこには音楽に対する取り組み方の根本的な違いがあることは否めない。
レベッカから学んだ「自然」に回帰する音楽は、そのことによって「人間の本性」のあるべき真の姿、さらにはそれを超えたところにあるものに近づこうとするものなのだ。直接的に官能に強く訴えることではなく、お香のように天に昇ることを目指した表現なのだ。確かに、ケースが言っていたように、ジョスカンも当時のほかの音楽家たちも生身の人間であり、決して聖人ではなかった。音楽家には聖職者が多かったが、それでも路上の喧嘩で流血騒ぎをおこしたり、いかがわしい女性をいつまでも家に住まわせていることで教会の参事会から咎められたというような記録もある。また、安月給に頭に来て職務を怠り、アルバイトに他の教会のミサに歌いに行ったり、ボール遊びに精を出したりして、裁判沙汰になるなんてこともあったらしい。だからこのような宗教音楽でも、そのような人間性にふさわしい表現をするべきだとは、到底考えられない。人間味豊かな作曲家たちの神聖な部分が湧き出して結晶化したに違いないと思わせる作品は、15世紀フランドルの宗教音楽には多くある。そのような音を通して、日々出くわすあたりまえな人間の感情ではなく、それらを濾過したときに開けてくる超越的な次元につながろうとするのが、カペラの目指す音楽なのだ。
もっとも、コーチングの際に「とにかく言葉の表現をした演奏をしてみて」ということで、試しにある楽章をちょっと大げさに歌ってみたら、お客さん拍手喝采。本番の演奏は特に変わったことはしなかったが、丁寧にいつもの通りに歌い、コーチングのときよりはカペラらしいよい演奏になった。するとジルたちの感想は、「あの時からとても変わった、本当にずっとよくなった、すばらしい!」だって。まあそんなもんなんだよな。 |