![]() |
||
|
◆自然の歌声 |
||
|
ヴェズレーの光 |
||
|
アントワープでの怒涛のような日々が終わりほとんどのメンバーが先に帰国した後に、数日間フランスに立ち寄った。以前からあこがれていたブルゴーニュ地方にあるヴェズレーVezelayのロマネスク教会を見るのが目的だった。TGV(テ・ジェ・ヴェ、フランスの新幹線)の停まるディジョンに宿泊。ヘント、ブリュッヘといった14,5世紀ブルゴーニュ公ゆかりの地をまわったこの旅は公国のかつての首都へと続いてきたわけだ。壮麗な墓碑などを見学して、それまで単なる名前でしかなかった大公たちが、実体を伴って私の中に入ってくる。彼らの宮廷や当時の教会で奏でられた音楽を演奏しているのだから、スポンサーだったこの方たちに感謝しなくてはね。 |
||
|
||
|
中世の面影を残した村の入り口に車をとめ、一本道を昇ってしばらく行くと、小さな広場にそびえる聖堂のファサードがおもむろに現れてくる。本格的なフランスのロマネスク教会を見るのは初めてなので、そびえ立つ正面のその素朴な姿、そして様式化されているだけに神聖さに満ちたティンパノンの彫刻にまずとにかく圧倒された。しかし中に入ってみるさらに驚愕、もうその場にくぎ付けになってしまった。こんなもの見たことがない!白い石が主体の奥行きの深い御御堂は光り輝いていた。内陣の祭壇ははるかかなた。そこに向かって左右の壁が絶妙な均衡を保ちながら吸い込まれるように流れていく。天井に少しずつ混ざっている薄茶の石がまたなんとしゃれていることか。落ち着きを取り戻してからそれぞれの柱の上に彫刻された聖書や聖人伝の場面を見上げて、一つ一つ仔細に観察する。それぞれがとてもおもしろく、見とれているとしまいには首が痛くなってしまうほどだった。 |
||
|
||
|
これは、普段からヴェズレーの響きの中で歌い祈っている人たちに与えられた恵みなのではないだろうか。ただ長いだけではなく、不完全な人間の声を引き受け、引き伸ばし、吸い上げていってくれるようなこの音響が、この人たちに歌い方を教えてきたのではないだろうか。アントワープの音楽祭で立派な演奏をいくつも聴いた。しかし、これほど心が洗われ、平安で満ち足りた気持ちにしてくれる演奏はなかった。式が終わり彼らが去った後も聖堂はさらにその輝きを増し続け、その光は私の心の中に広がっていった。 |
||
|
||
|
たそがれの修道院 |
||
|
旅の締めくくりは今年も修道院、千数百年続いてきた祈りの空気の中にひとり静かにすごす時間は、まさに人生の至福の時、英気がどんどん入ってきてくれる。まあ、たまにしか来ないからそんなことを言っていられるので、あこがれはするものの私などにはとても修道生活は無理だろう。だがとにかくこのような場所が存在してくれることに、それを維持し続けてくれる修道士さんたちに感謝の気持ちでいっぱいになる。 |
||
|
||
|
すべてラテン語で、グレゴリオ聖歌のみで歌われる日々の典礼といい、新来の客が最初の食事の前に修道院長から受ける手を洗う儀式といい、大食堂で沈黙のうちに朗読を聴きながらいただく食事といい、6世紀の聖ベネディクトの会則そのままだ。物、仕草、時間など何をとっても余計なものは一切なく、すべてが永遠の繰り返しの中で、緻密に、丁寧に、真心こめて行われ、動いていく。すべては祈りのために整えられている。それを邪魔するものは何もない。 |
||
|
||
|
ひとつの聖務日課が終わりに近づくと担当の修道士が祭壇に向かって礼をしてから出ていく。祈りの最後の鐘を鳴らすためだ。ゆっくり歩いて行き、ちょうど鐘つきの場所に彼が到着した瞬間に祈りは終わり、そして鐘が鳴らされる。早すぎも遅すぎもしない。全く慌てずゆったりとしていて、それでいて遅れてしまうようなことはない。聖堂から出ていく行列のために扉を開くタイミングも、もちろん食事の用意や客の世話、あらゆることが完璧なタイミングで行われる。質素であるということがこれほどまでに豊かに感じられるのは、そこに気の遠くなるほど長い繰り返しの伝統と、中世の昔から今までそこにたずさわってきた数知れぬ修道士さんたちの祈りのおかげだろう。 |
||
|
||
|
「プレゼンテーション」にはあまり向かないらしいカペラの音楽、プラテンシスと決別するに至ってしまったレベッカの情熱、現代社会の中の修道生活。どう考えていったらいいのか、そして理念を実現していくためにはどうしたらいいのか。修道院の静寂は私を癒し、高めてくれる。しかし課題の解決は東京での日々の取り組みの中にしかない。 |
||
|
|