花井哲郎の2001年アントワープ便り
1.「長3度の罠」8月28日
2.「音楽と言葉(1)」8月29日
3.「音楽と言葉(2)」8月31日
4.「レベッカ・スチュワート師」9月1日
5.「修道院の鐘の音」9月7日
6. アントワープ便り・付録その1、2

1.「長3度の罠」8月28日

音楽祭のパンフレット 8年前に始まり毎年催されている音楽祭「ラウス・ポリフォニエ」Laus Polyphoniae<「ポリフォニー万歳(文字どおりには、讃美)」とでも訳せようか>のために2日前からアントワープに来ている。今年はジョスカン・デ・プレとイザークをテーマとして、9日間にわたってアントワープ市内で毎日演奏会、講演、ワークショップなどが行われる。
 特に、最後の3日間に集中して行われる恩師レベッカ・スチュワートのワークショップに参加してジョスカンのミサ・パンジェ・リングアを歌うのが大きな目的のひとつだ。2年前カペラでも演奏した曲だが、敬愛する先生の指導のもとで学生時代に戻った気分で勉強し直すつもりでいる。

 レベッカ率いる「カペラ・プラテンシス」は私が到着した日曜日の朝、教会のミサでこの曲を歌うというので、荷物だけ宿に預けて親切な宿のご主人に車で送ってもらい直行した。ベルギーでは50年に1度あるかという猛暑の中、満員の教会の中で久しぶりに聴いた先生のアンサンブルは、メンバーがだいぶ入れ替わっており、以前の響きとは変わっていたが、その音楽は紛れもなくレベッカの精神に貫かれたものだった。自分自身4年間日本の歌手たちと同じ分野に取り組んだ後の現在では、どうしても批判的に聴いてしまい、昔のように単純に感動することはできない。まあ、自分たちとの違いが分かってきたことがひとつの収穫だと言えるかもしれない。これはもちろんその後聴いた他のグループの演奏からも、さらにはっきりと感じとられたことでもある。

音楽祭ポスターと一緒に記念撮影 今年はヒリアード・アンサンブルが「アンサンブル・イン・レジデンス」ということで、昨日はメンバーとの昼食会、公開リハーサル、そして夜は彼らの最初の演奏会があった。こちらもカペラですでに取り上げたジョスカンのミサ・デ・ベアータ・ヴィルジネ(聖母のミサ)を、各楽章間にジョスカンとゴンベールのモテットを挟んで演奏していた。公開リハーサルでは聴衆からの質問も受け付け、なかなかいい雰囲気だった。6声の曲がプログラムに含まれているため若い歌手2人を加えてはいたが、良くも悪くも長年のアンサンブル経験とおそらくは共通の英国合唱文化の背景を持ったもの同士の無言のコンセンサスがあり、初めて合わせた曲でも打ち合わせなどを必要とはせずにとにかく歌っているうちに仕上がっていくという様子だった。

 私は英国のアンサンブルは、大変失礼ながら聴いているうちに眠くなってしまうことがよくあるので、いつも演奏がどうのこうのではなく、総譜を勉強しているときの様に音楽自体を聴くように努めている。今回のヒリヤードでもやはりその傾向はあったが、中には思わず引き込まれていくような素晴らしい瞬間もあった。アーティキュレーションが私には堅すぎてどうもなじめないカウンター・テナーのデイヴィッド・ジェイムズを抜かして演奏されたジョスカンの4声のモテット"Domine, ne infurore"は、そのような輝きが感じられた一曲だった。

 私にはヒリアードの演奏は少々「モダン」に思える。多少意地悪な言い方をすれば、バッハをピアノで弾いているイメージに近い。曲がたまたまルネサンスだというだけで、ちょっと悪戯をして現代的な和音を例えば彼らのジョスカンのモテットの演奏に加えていって20世紀風の作品にアレンジしたところで、何の違和感もないだろう。そんなことは承知で、質問がとぎれていたときに訊いてみた。「ルネサンス音楽を歌う時と現代曲の時で、声の使い方などに違いはあるのですか。」みんな一様にあれこれ考えながらも、違いはないなあ、という結論で一致していた。そうでしょう、そうでしょう、訊くまでもなかったのですけどね、とはさすがに言わなかったが、そのうちに、2日後に予定されているアルヴォ・ペールトの演奏に絡んで、言葉の違いによって響きは変わってくるということを言い出すメンバーもいた。レベッカ先生はまさにそのことを突き詰めて、今のスタイルに至っている。そうそう、そこなのですよ。問題はそれを先に持ってくるか、後から付け足すかの違いなのだ。

 テレビ局が入っていた公開リハーサル後、日本から来ているということで、音楽祭の運営をしている昔からの友人に頼まれて急にテレビ・インタビューを受けた。私自身の持っているルネサンス音楽のイメージからはかけ離れているヒリアードのリハーサルについて質問されて、あまり批判的にならないように注意しながらしゃべるのに苦労した。しかし、日本の古楽事情や私自身がジョスカンをどう思っているかなどといったことについてはとっさのことながら言葉が次から次へと湧いてきて、これが放送されたとしたら、やけに専門的なことをオランダ語でしゃべりまくる変な日本人ということで、テレビを見ている一般の人はおかしがっているに違いない、と思い、後から考えてこちらがおかしかった。

アントワープの象徴、ブラボーの像 超一流の音楽家の集団であるヒリアードの演奏でさえ私が眠くなる秘密のひとつに、彼らの「完璧な」音程感覚があることは薄々感じていたが、翌日テノールのロジャース・カヴィー・クランプが中心となって行われた講義とワークショップでその謎がまた少し明らかになった。完璧な絶対音感の持ち主であり、様々な音律について詳しく、微妙な音程差も簡単に歌いわけてみせるその能力にはとにかく舌を巻いた。ワークショップで4人の男声が歌った後に、「今の演奏は何セント下がったよ」などとまじめな顔をして言っていたが、本当にそこまで聞き分けられるのだろう。さらにはなぜ下がったのかを指摘したが、それは歌手たちの能力が足りないせいではなく、逆にうまくいろいろな音程を純正にとっていることが原因だということだった。つまり、自然な音程感覚で歌った当然の結果だったのだ。ヒリアードの演奏では、ほんの1セントでも下がりたくないために、「完璧に」調整しているのだという。(全世界のリスニング・ルームで聴かれる彼らの商品としてのCDでは重要なことなのでしょうね、きっと。15世紀の人にとってははたしてどうだったでしょう?)

 何よりも決定的なのは、チューニングの基本を純正な長3度に置いているということだ。初期バロック音楽などでは当然な純正長3度もルネサンスでは問題を含んでいる。中世のピタゴラス音律では長3度は平均率よりも幅広くなり、不協和音として知覚される。1400年代にデュファイらが長3度を多用するようになってそれが急にすべてミーントーンのような純正長3度のみに移行してしまったとは、私には考えられない。狭いミファ(5度を純正に重ねていくピタゴラス音律の結果として、ドに対してミを高く取るとミファの半音は狭くなる)が持つ特性はグレゴリオ聖歌のような単旋律の歌だけではなくポリフォニーでも、特にジョスカンの多くの曲で独特の魅力を生み出す(と私は感じている)。

 カペラではピタゴラスを出発点とし、長3度を含む和音が長く続くときには縦の響きの美しさを尊重して長3度を狭くして純正で歌い、導音として続く完全5度の終結音に解決する時や、ミの旋法(いわゆるフリギア旋法)の曲の時などは横の流れ、旋法の特徴をとり、わざと緊張感のある広い長3度(つまり、狭いミファ)を歌うように心がけている(もちろんいつもうまくいくとは限らないのですけどね....)。 ヒリアードではすべて純正に取り、ロジャース自身幅広い長3度ではとても歌えないと言っていた。この点を質問し、私の方針を説明したところ、もちろんピタゴラスからミーントーンへの変化には時間がかかっただろうから、そのようなことは十分可能で、とても興味があるので私たちの演奏をぜひ聴いてみたい、ということだった(何セント下がってるよ、なんて言われそうであまり聴いてほしくないけど)。彼自身、この感覚は後期のものをたくさんやってきたことから来ている、と認めていた。

 いずれにせよ、この純正な長3度に基づく、芳醇な美声に圧倒されながらも眠たくなってしまう「完璧な」安定性がヒリアード・アンサンブル(と同時に、他の多くのアンサンブル)のルネサンス音楽への取り組み方を象徴している様な気がする。音程にこれほど細かいと言うことはそれだけ縦の響き、固まりとしての和声を大事にしているということで、グレゴリオ聖歌以来の旋法の音楽が持つ音そのものの流れ、動き、展開が、どちらかというと副次的にとらえられている傾向が感じられる。何しろcontenance angloise(イギリス風の装い)といって、15世紀に長3度の魅力を大陸に持ち込んだのは英国人なのだからね、歴史は繰り返しているのかな。

ティンクトリス「音楽用語定義集」 ところで、私が15世紀の音楽にこれほど惹かれる理由は何なのか、このところ少し分かってきた気がしていた。それは、この時代の音楽が中世と近代の不思議な混ぜ合わせの結果できあがっているということだ。これは、中世音楽研究会訳のティンクトリス「音楽用語定義集」にそえられている磯山氏の解説を読んでいて気がついたことである。中世のひとつの特徴は世界の一元性であり、主観客観の明確な対立が確立していずに、言ってみればすべては神の創造物というひとつの総体に還元される。そこにはもちろん霊的な世界も属しており、例えば肉体を離れた後の魂は、現世を生きている人々にとっても現実そのものである。音楽はその根元を理念化されたイデアの世界に持ち、耳に聞こえてくるのはその最終的な形態に過ぎない。音楽は天文学や数学と共に、完全な神の創造という神秘に属する。そして神的な調和を、より現実的な世界に顕すのが音楽家の務めなのであろう。

 このような中世的世界観、音楽観に比べるとティンクトリスの辞典は実践的であり、そこでは神学的考察は行われない。実際に耳に心地よく響くということが、15世紀には音楽の重要な要素になり、さらにまた、作曲家が個性を主張するようになってくる。天体の響きというよりは、独創的な芸術作品を創り出そうとする。 問題はそのような意識の移行が長い時間をかけて起こったということであり、また、移行とはいっても右にあったものすべてがある時期に完全に左に変わってしまった、という単純なことではない、ということなのだ。特に15世紀は近代的な意識が芽生えて音楽にひとつの新しい方向性を与えながらも、中世の世界観を色濃く残した不思議な時代だったのではないか。現代人でも共鳴できる語彙を用いながら、忘れ去られた中世的異次元の世界を伝えてくれているのではないか。純正な長3度という私たちの感性に心地よい響きを織りまぜて、ピタゴラス音律の現す天体の響き、神の調和をわかりやすく聞かせてくれているのではないか。

 純正な長3度はコーヒーの砂糖である。入れすぎるともとの味が損なわれてしまう。するとミルクも入れたくなる。冷やしてクリームをたっぷりのっけたくなる。しまいにはコカコーラの方が良くなる。


→「音楽と言葉(1)」8月29日 へ続く

ガーゴイル城の扉聖母子をデッサンする聖ルカ

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